レッスン体験記~音楽論

前回の更新からだいぶ時間が経ってしまいました。
その間何をしていたかというと、エスラージと並行して、音楽論について教わっていました。

厳密に言うと、先生の音楽論を支える論理学のお話。
先生が音楽や楽器をどのようにとらえているかというのは、非常に興味深い話です。

何故かというと、先生は複数地域の楽器や音楽をかなり高いレベルで習得しています。「とある巨匠が、ほかのどの弟子にも託さなかった大切な楽器を若林先生に託した」「この楽器一本に専念するなら政府に奨学金を出させる」といったこともあったそうです。

先生がそこまでできた理由は、勿論才能や努力もあるはずですが、音楽に対する姿勢、考え方も大きなウェイトを占めていると考えています。

今回は先生の音楽論のもとになる論理学について書こうか悩んだのですが、今それを書いたところで自分の理解が足りていないだろうし、そもそもその大切さを理解してもらうことが先決(そしてそれも非常に大変)だと思うので、何故それが必要か?について書いてみたいと思います。

前提として

まずこの話を始める前に、この記事を読み進める方にお願いしたいことがあります。それは、「分かった気にならない」という事です。表面的な理解にとどまらず、またご自身の解釈で「つまりこういうことだよね」と思考停止してしまわず、何故私がそう書いたのか、何故先生がそのように考えているのかなどを真剣に考えてほしいと思います。

よく使う例で、「戦争を体験した世代と、話でしか聞いたことのない世代の言う『戦争はいけない』という言葉は違う」というのがあります。どちらも「戦争はいけない」と同じことを言っていますが、間違いなくその言葉の裏にあるものの重さは異なります。

他にも、最近「ぼっちゃん育ちの政治家に庶民の気持ちがわかるはずない」という意見もネットで見ましたが、これも同じだと思います。「ぼっちゃん育ちの政治家」は自分で見たり人づての話などで「庶民の生活」を知っているはずですが、庶民の気持ちがわかるほど理解していないというのは、多くの人が納得してくれると思います。

ここでは、良い悪いではなく、人の思考とはそのようなもの(すぐにわかった気になってしまう)だから、十分注意してくださいね、と言いたいのです。
※特に、賢い人ほど注意が必要です。

人の心は汚染されている

自分で書いといて「なんか宗教っぽいな」と焦ってしまいましたが、そういった類の話ではないのでご安心ください笑

先生の著書によると、昔は音楽が病気の治療にも使われたそうです。現代でも音楽療法がありますが、多分それとは違ったレベルで使われていたようです。先生の著書を読んでいて気になった文章に「現代は身の回りに音楽が溢れていて、現代人は音楽に対して鈍感になっている。音楽が生活の中に殆どなかった人が、いきなり音楽を聴かされたら、病気の一つも治ってしまうだろう」といったものがありました。

勿論、そこで使用される音楽の「質」もあると思いますが、「我々が音楽に対して鈍感になっている」というのは、音楽好きとしてゆゆしき問題です。

※余談ですが、先生のアーユルヴェーダ(インドの音楽療法)では、まずそこ(音楽に対して鈍感になっている)から対処するそうです。

そういった「慣れ」の他、人は生活環境や教育の現場で、色んなことを刷り込まれています。勿論その中には良いものもあれば、害になるものもあるわけです。

例えば、「音楽とは楽しんでなんぼ」という考え方。それはそれで否定はしませんが、苦しんで学ばないとわからない「楽しさ」もあるはずです。

「音楽はピュアな気持ちを表現するもの」それもそれで否定しません。JPOPなんかはその風潮があるように感じます。「心のこもった歌」「素敵な歌詞」どれもよいと思いますが、「音楽自体」「演奏」にももっと目を向けてほしいな、と思うことがあります。

上記は一例で、賛否あると思いますが、ここで言いたいのは、そういった価値観により見過ごされているものがあるという事、そして、その価値観は本当に自分のものですか?誰かから刷り込まれたものではないですか?という事です。

音楽を本当に楽しむために

上記の「汚染」により、音楽の本当の楽しさに気付けていない人も多くいると感じています。自分もその一人です。

それはそれで否定しません。(ただ、マクロな視点ではそれにより滅びていく音楽があることも事実で、それは憂慮すべき事項と思います。)

私はここで、「自分の知らない本当の楽しみ」を知りたいと考えたわけです。

民族音楽に手を出したのも、我々の身の回りにあるほとんどの音楽は西洋音楽の流れにあり、そうでない音楽の中にも素敵なものが沢山あるんじゃないか?と思ったのがきっかけです。

ただ、その流れの中で民族音楽を知ろうとすると、その土地の気候や民族、歴史などいろいろ学ぶ必要があると知り、どっぷりと沼に浸かってしまった訳ですが…笑

さて、民族音楽に馴染みのない方にはこの感覚は伝わりにくいと思うので、もっと身近な例で考えてみます。

私たちが普段音楽を聴いて「この曲いいな」と思う時、その理由はなんでしょうか?

「歌詞がいい」「メロディが素敵」「自分の心を慰めてくれる」「気持ちを上げてくれる」色々あると思います。でもここで一旦立ち止まって、それは独りよがりの解釈ではないか?と考えてみたいと思います。

どういうことかというと、その音楽が素敵なのではなく、自分が「勝手に素敵な音楽と解釈していた」という事はないか?という事です。音楽を道具やアクセサリーとして考えるならそれでもいいかも知れません。(道具やアクセサリーとして考えることに対し、私は否定的な立場ですが)

10代のころよく聞いていた音楽で、今でも大好きであるなら、そうでない可能性はありますが、実は「その音楽を聴くことで当時の思い出が蘇る」と言ったように、曲の良さとは別のところで音楽を評価している可能性もあります。

ここで注意していただきたいのは、その音楽を「愛おしいと思うこと」と「素晴らしい音楽である」という事は別だという事です。愛おしい音楽はそのまま愛してあげればよく、これから新しく知る音楽について、純粋にその音楽自体の素敵さに目を向けられれば良いと思うのです。

料理なんかでも、ただ「おいしい」で終わらせるのではなく、料理人のこだわりや素材一つ一つの味、さらには隠し味なんかにも気付けると、より味わい深く、その料理を楽しめると思うのです。

なお、ここで書いている内容は、「質の低い音楽を見分ける」ためではなく、「良い音楽の本当の良さに目を向ける」事を重要視しています。

最後に

まとまりがなくなりそうなのでこの辺でまとめに入りますが、ここまで読んで、「大切さは分かったけど、それ楽しいの?」と思った方、それは誤解です。

正直なところ、知的好奇心での楽しさはありますが、音楽的な楽しさは正直今のところ薄いです。先ほど書いた、「苦しんで学ばないとわからない楽しさ」いうなれば「必死で練習して、弾けるようになった時の楽しさ」みたいなもので、今は「必死で練習している段階」なのです。

でも、先生を見ていると、その先には間違いなく「物凄い楽しさ」があると実感しています。だって、そうでないと何十年も民族音楽の研究・演奏分野の第一線にい続けるはずないと思うんですね。

もし、私の感覚を共有できる同士がいらっしゃいましたら、お気軽に連絡ください。

※余談ですが、「人の心は汚染されている」にも書いたような内容ですが、ビジネスの分野でも注目されています。興味のある方は「アンラーニング」で検索してみてください。アンラーニングは先生に論理学を習う場合にも応用が利きますので、個人的にはお勧めです。

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